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ルイヴィトンは、日本の女の人からは継続的に根強い支持を保持していますが、昨今は、ジュエリーの提案や服作りに取り組み始めたことでも注目を集めています。
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翌日、かかりつけのクリニックに行って血液検査。その結果、「血液に異常がみられる」というので大学病院で精密検査を受け、血液のがんである白血病だと診断されたのです。即、入院。「しこり」に気づいてから3日後のことです。病名を知らされたときは、「まさか自分が」でした。白血病についての詳しい知識はありませんでしたが、番組の中で、この病気になった方々の情報をお伝えしたことは何度もあります。渡辺謙さん、市川圏十郎さん、本田美奈子さん……。昔の方でいえば、夏目雅子さんもそうでしたね。だから命にかかわる大変な病気だということくらいは、当然知っていました。

急性リンパ性白血病というのが私の正式な病名です。白血病にもいろいろタイプがある中で、いちばん治しにくいのが、この急性リンパ性白血病なんだそうです。しかも60代での発病は最悪だとか。最悪でも何でも、なってしまったものはしょうがない。病気を受け入れるしかありません。l7年も続けてきた『めざましテレビ』を休まなければいけないことは気がかりでしたが、命にかかわる病気である以上、ウンもスンもない。仕事を続けられる病気でもなく、あとは医師におまかせするだけです。番組を休むことになって、視聴者の方からはものすごい数の励ましの手紙や寄せ書きをいただきました。番組を見てくださっている人が多いことは視聴率で感じていましたが、私ごときにこれだけの思いを寄せ、応援してくださる方がいる。

そのことを目の当たりにし、嬉しくて涙が出ました。担当医からは「中学生の頃から見ていましたよ」と言われ、看護師さんには「私は小学校に上がる前からです」と言われ、おいおい、おれはどんなに年寄りなんだよと思いましたが……。(笑)11年の11月2日に入院し、抗がん剤治療が始まりました。強力な抗がん剤だから、体のほかの部分にも大きな負担をかけるので、それを軽減させるための薬も飲む。朝晩、よくこれだけ飲めるなという量の薬を飲みました。寝ていること、点滴と注射をすること、薬を飲むこと、これが入院中の私の仕事です。
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七月一日、安倍晋三内閣は憲法九条の解釈を変更し、「集団的自衛権の行使を容認する」という閣議決定をした。大きく報道されたから知っている人は多いはず。でも、集団的自衛権って何?そうなんです。むずかしいんですよねえ、この話は。憲法九条には〈国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する〉(一項)と書いてある。〈陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない〉(二項)とも書いてある。あらゆる戦争は全部ダメ、といっているように見えるけれども、歴代日本政府は「侵略戦争は絶対に許されないが、個別的自衛権はある」と解釈してきた。

個別的自衛権は、個人におきかえると「正当防衛ができる権利」に近い。日本が武力攻撃をしかけられたとき、やられっぱなしでいいんですか。主権国家である以上、国か国民の生命と財産を守るのは、当然でしょう。防衛できなかったら国の主権は奪われるんだから、憲法もまさかそこまでは禁止してませんよ、という解釈だ。よって一九五四年に創設された自衛隊はあくまで自衛のための組織であって、軍隊ではない(自衛隊は合憲である)というのが政府の見解だった。自衛隊とは、たとえていえば、護身用の催涙スプレーみたいなもの、ですかね。しかし、護身用のスプレーを濫用してはいけないのと同じで、自衛隊の武力行使にも多くの制限がかけられてきた。

最大の制限は相手が先に攻撃してくるまで、自分から武力行使をしないこと(よく聞く「専守防衛」とはこのこと)。相手が先に攻撃してきた場合でも、①わが国に対する急迫不正の侵害があること、②これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、と定められてきた。自衛隊が武力を行使できる条件は非常に厳しかったのだ。ちなみに戦後の日本は一度も個別的自衛権を行使していない。幸いにも、先の①②に該当するような急迫の事態は起きなかったからだ。以上のような原則を、安倍政権は七月一日に変えたわけ。これからは個別的自衛権に加え、集団的自衛権も行使できるようにします、と。これは戦後の安全保障政策の歴史的な転換だ。大きなニュースになるのも当然でしょう?
治療のために転院せざるを得なくなりました。意識が戻らず、担当の医師からは「覚悟してください」と言われて・・・・。でも私たち家族は締めませんでした。東京で暮らす私や弟家族、父が毎日誰かしら病室に詰めて、意識のない母の手をさすったり、話しかけたり。どこそこのお守りがいいと聞けば、朝早くいただきに行ったりもしました。10日ぐらいすると、ちょっと指先が動くようになり、私たちが「眼をぎゅっとして」と言ったらまぶたを動かすなど、反応うぃてくれるように。あっ、聞こえているんだと、嬉しかったですね。そのうち少しずつしゃべれるようになり、ついには冗談を言えるところまで回復。奇跡が起きたと思いました。

そしてふたたびもとの病院に戻ったのですが、心臓の具合は悪化する一方で・・・・。緊急手術を行ったものの、すでに手遅れの状態。そのまま回復することなく亡くなりました。母は心臓を患っていたこともあり、いつそのときが来てもいいように、覚悟をしていたのかもしれません。亡くなる直前、実家の私の部屋の引き出しをあけたら、「葬儀」と書いた袋が喪服の上に置かれていました。その袋の中を見て初めて知ったのですが、母は近くの葬儀社にお金を積み立てていたのです。母が私のために喪服を用意してくれていることは知っていましたが、自分の死を見据えての準備までしていたとは・・・・・.葬儀場のパンフレットには、「このプランにしてください」と、丸がつけてありました。

お棺や祭壇にはランクがあるのですが、どれも一番安いものを選んでいました。なにもそこまで質素にすることはないのに。もうちょっと贅沢してよ、と思った。一方で、あぁ、母らしいな、とも。「家族だけで見送ってください。お花は真っ白ではなく、ピンクとかきれいな色も入れてね」と書いた紙も入っていました。もろもろの手続きに関する覚書も見つかりました。銀行やさまざまなカードの一覧があり、「もし私に何かあったときには解約してください」と、手続きのための窓口の電話番号まできっちり書かれていたのです。役所にどんな届を出さなくてはいけないか、市の行政サービスの冊子から切り抜いたものもはさまれていた。これらの情報は、何年かごとに更新していたようでした。いったい、どんな思いでこの作業を続けてきたのか。それを思うと、胸が詰まります。
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